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子どもと時間

先日のブログでは、「日本学術会議と子ども」と題して、日本学術会議による提言の内容などについて触れました。提言の中では、現代の子どもが外遊びをする機会を失っているとありましたが、その理由のひとつが習い事などの増加による自由な時間の喪失にあります。

私は、幼いころにあれこれ多数の習い事は不要であるし、習わせ過ぎは有害であると思っています。とにかく子どものころには学校以外の時間で自由を謳歌してもらいたいし、その自由を通じて多くのことを経験し、考え、吸収すると思うからです。

私自身も小学生のころには、夏休みも含めて「暇な時間」を何もなくダラダラと過ごしたり、あてもなく近所をブラブラしたりしていました。これといったことはしていませんが、実はこれが重要で、何にも拘束されないがために自分で自分のことを考える機会になっていたと思います。

中学生のころにはより行動範囲が広がり、より遠くへ、より時間をかけて「無駄な」行動をしていました。

高校になればいよいよさらにあちこちへと「空いた時間」で行動をするようになりました。

そうした経験があり、自分で自分の行動範囲を広げ、自分で考えて行動し、行動のための資金や段取りをしたりする能力身につけました(中学のころには遠方での外泊もするようになりましたし、高校ではさらに海外にも一人で行きました)。

こうした経験は自由な時間が存分にあるからであり、その中で得た思考や友人との交流は自我の確立のために必須のものでした。

ところが最近の子どもにはこのような自由な時間がなかなか無いようです。しかし、自由がないと自我も育ちません。自我がないと何のために社会に出るのか自身が持てません。自我がないと社会に出ても良い社会貢献も実現できません。ですから、子どものためにも、社会のためにも、子どもに対しては一にも二にも、自由な時間を作ってあげて欲しいと思うのです。

ちょうど、エマニュエル・トッドさんの「大分断」という新書に、私の考えることと同様の論述があり、深く共感できました。やはり少子化の現代であるからこそ教育や子育てについて、しっかりと考えていかないといけないと思います。