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小山田圭吾氏によるいじめ問題について

学生時代のクラスメイトや障がい者へのいじめについて、小山田圭吾氏のインタビューが複数の雑誌で記事にされていたことやその内容に関し、批判が集まり、小山田氏がこれをTwitter上で謝罪したものの批判が収まらず、担当していた東京五輪開会式の楽曲担当を辞任するに至りました。

海外メディアでも取り上げられるなど大きな騒動になっています。

この点、どうしてここまでの騒動になったのか私なりに考えてみました。

大前提として、学生時代のいじめについては小山田氏が認めるとおり事実であり、その内容も相当苛烈だったようです。

当然、程度を問わず「いじめ」は許されません。

その上で小山田氏の問題は、過去のいじめ加害の事実を「おもしろおかしく」雑誌に掲載させた点にあります(インタビュー記事のため、発刊までの間に本人による内容のチェックができたか否かという問題はあるにしても、いじめのことについて反省し、謝罪するような内容の記事でないことは明らかです。)。

しかも、類似のインタビュー記事が複数の雑誌に掲載されているように、反省や謝罪の姿勢がないことが明らかです。

小山田氏は、いじめの問題や障がい者に対する認識についてその程度の認識だったところ、東京五輪の開会式音楽担当ということからネット上での批判を受けました。

批判を受けて小山田氏は冒頭のとおりTwitter上に謝罪の言葉を述べました。しかし、これはやはり遅すぎると言わざるを得ません。

どんな人でも過ちを犯します。過去に過ちを犯したことの無い人などいません。

大切なことは犯した過ちに気が付き、向き合い、反省し謝罪することです。そしてこれは自らの自発的な意思によるものでなければ意味をなしません。

人から言われて反省する。人から言われて謝罪する。

これでは本当の反省や謝罪とはいえないのです。

その意味で今回の小山田氏の謝罪は遅きに失したと思います。そもそも学生時代のいじめについて、インタビュー当時に反省していればこのような記事自体も生まれていなかったでしょう。インタビュー当時に反省していなくても、雑誌に掲載された後、30年近くの時間がありました。この間、小山田氏はきっと自発的に反省し、謝罪する機会を持てなかったのでしょう。

その結果、この度の事態に至ってしまったのです。

本来は学生時代にいじめをせずにいられたら良かった。仮にいじめをしてしまったとしても、大人になってからでも反省し、軽率なインタビュー記事にしなければ良かった。仮に記事にしてしまった後、そこからでも反省し、記事を踏まえた反省をすれば良かった。

だけどいずれもできなかった。

最後に多くの方から非難を浴びて、最終的には謝罪をした。

その時にはもはや「本当に反省している」とは受け止めてもらえなかった。

これが今回の騒動の私の考えです。人は過ちを犯します(いじめを正当化する意味ではありません)。でも、反省して生きていくこともできる生き物です。そのことの大切さを考えます。