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赤毛のアンを見て思うこと

最近、テレビで「アン・シャーリー」という名前で赤毛のアンのアニメが放送されていますね。

子ども時代読んでいた本だったので、大変懐かしく感じ、最近少しずつ読み直しています。

さて、「赤毛のアン」は孤児の女の子が孤児院から老兄妹宅に引き取られるところから話が始まります。

アンを引き取る理由は、「仕事を手伝ってもらうため」となっています。

舞台は1900年頃のカナダ。

なるほど、やはりこの頃はそういった観点での縁組が一般的だったのだなと感じました。

教科書的な話になりますが、養子縁組は、伝統的には「家制度の保持」「労働力の確保」のため、すなわち引き取り手側の利益や都合が優先されていました。

一方で、現代の養子縁組はあくまで「子ども中心」。

子どもの利益や福祉を第一にして、適切な家庭環境が失われた子どもたちに恒久的かつ安心できる家庭環境を与えることを目的とされます。

何となくそんな時代背景に思いを馳せつつ、どっぷりと本の世界にひたっています。

最後にアンの言葉の中で、心をゆさぶられたものを一つ。

アンを引き取ろうとするマリラが、アンに対し、これまで一緒に暮らしてきた大人は親切にしてくれていたか聞きます。アンは、きまり悪そうに答えます。

「あの、二入りとも、そのつもりはあったのよ・・・・・できるだけ優しくするつもりだったって私にはわかるの。他の人が親切にしようと思ってくれたなら、必ずしもいつもそうならなくても、あまり気にしないわ。だっておばさんたちには苦労が多かったもの。お酒のみの旦那さんがいたり、双子が続けて三組もいたら、大変でしょう?でもおばさんたちは、私に優しくするつもりだったのよ、私にはちゃんとわかるの」

(著者:L・M・モンゴメリ、訳者:松本侑子(2019)『赤毛のアン』株式会社文藝春秋p67)

マリラは、これを聞いてアンがこれまで不遇な人生であったことを悟ります。

アンはこのとき、まだ11歳です。もっと子供でいていいのに、もっと腹を立て、周囲の大人や自分の環境すべて、許せなくてもいいはずなのに、なぜ許そうとしてくれるのだろう。怒れない、許せないのはなぜなのだろう。

赤毛のアンはもちろんフィクションですし、決して重たい話ではない(むしろ、くすっと笑ってしまうような面白い話が多い)のですが、ついついそんなことを考えてしまうのでした。

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